箱館の人ものがたり |
勝海舟と渋田利右衛門 |
BGM / Nino Rota / Plein Soleil |
渋田利右衛門 | 箱館 弁天の回船問屋の長男として生まれ | ||
文化13(1816)−安政5(1858) | 幼少より読書好きで 長じて万巻の書籍を有した知識人 | ||
渋田文庫を設けて 現在の図書館のように蔵書を開放した | |||
續豊治が箱館で最初の洋型船を建造した時 利右衛門の蔵書を参考にしたと言う | |||
利右衛門は商才を発揮して父徳蔵の代よりも繁昌 | |||
江戸へ出て一年で六百両もの書物や機械を買入れた | |||
勝海舟(勝麟太郎) 文政6(1823)−明治32(1899) とは 書物商の嘉七が取り持つ縁で知りあい | |||
貧乏暮らしの海舟に書籍代と称し金二百両をおくり | |||
罫紙など提供し 苦学時代の海舟を物心ともに援助して親交が厚かった | |||
ペリー提督は箱館港下検分のため 5月17日艦船5隻で来航した | |||
この時 利右衛門(39)は奉行所に博識を見込まれ通訳として応接しています |
* 以下は 「氷川清話」から |
嘉七も慧眼(けいがん) | これは維新前に書いた日記帳だが この罫紙に《渋田蔵書》という銘が入っとる | |
大切な日記帳で話せば長いが 若い頃非常に貧乏で書物を買う金がなかった | ||
日本橋と江戸橋との間の今は三菱の倉がある所で | ||
嘉七という男が 小さい書物商を開いていたので そこへ行って | ||
店先に立ちながら 並べてある書物を読むことにしておった | ||
すると おれが貧乏で書物を買えないことを察して嘉七は親切にしてくれた |
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一度会ってみよう | ところがその頃 箱館の商人で渋田利右衛門(33)という男もこの店へ度々来ており | |
嘉七からおれ(26)の話を聞いて『それは感心なお方だ 自分も書物好きだが一度会ってみよう』 | ||
というので嘉七の店で逢った | ||
利右衛門のいうには『同じ好みの道だから この後の交際を願いたい』 | ||
『私もお屋敷へ伺いますから あなたも私の旅館へおいでください』と連れて行かれた | ||
旅館は永代橋あたりだったが そこでその日はゆるりと話をした | ||
親もあきれはて | 利右衛門は子どもの頃から本好きで 始終本ばかり読んでいた | |
親がこれをひどく嫌って 書見をいっさい禁じた | ||
なお隠れて読んでいたところを見つかり 叱られたうえ両手を縛られ | ||
懲らしめに二階へ押し込まれ 飯も食わされなかった | ||
やがて日が暮れ 懲りたであろうと二階に上がると | ||
懲りるどころか 縛られながらも草双紙を足で開いて読んでいた | ||
親もあきれはて『これからは家業さえ怠らねば書見を許す』ということになった | ||
やせ形で色白 | 利右衛門は喜んで 家業の余暇にはいろいろな書物を買って読み | |
江戸へ出た時には たいそう金をかけて 珍本や有益な機械などを求めた | ||
郷里箱館の人に説き聞かせるのが 一番の楽しみということであった | ||
利右衛門の人物は高尚で 話はおもしろく やせ形で色白 さながら婦人のようだけれど | ||
毅然として動じない様子が さすがにひとかどの人物であった | ||
勝海舟の貧乏といったら | 二 三日すると 利右衛門はおれの家へやって来た | |
その頃のおれの貧乏といったら非常なもので 畳といえば破れたのが三枚ばかり | ||
天井板は薪にして焚き一枚も残ってなかったが 利右衛門はべつだん気にもかけず | ||
落ちついて話をして かれこれするうちに昼になったから | ||
おれがソバをおごったら それもこころよく食って そしていよいよ帰りがけになると | ||
二百両の金を出して『わずかだが書物でも買ってください』と言った | ||
あまりのことに おれは言葉が出なかった | ||
『ご遠慮なさるな あなたに差し上げなくても じきに訳もなく使ってしまうので・・』 | ||
『それより あなたが珍しい書物を買ってお読みになり そのあと私に送ってくだされば何より結構』 | ||
と云って帰ってしまった | ||
其の後も罫紙を | この罫紙もそのとき利右衛門がくれたもので | |
『おもしろい蘭書があったら翻訳して この紙へ書いてくだされ』と言われたけど | ||
実際はおれが貧乏で紙にも乏しかろうと其の後も罫紙を送ってくれた | ||
この日記帳も《渋田蔵書》銘のある紙で綴じたのだ |
長崎にいる間に | それからは 双方で音信を絶やさず | |
おれがいよいよ長崎へ修業に行くことになると 利右衛門は非常に喜んで | ||
『これで私の望みも叶ったというもの 私も一度は外国まで行ってみたいけれど | ||
親の遺言もあるから 自由なことはできない』 | ||
『かようなご命令がくだったのは 我が事のように心得ているから 充分に勉強なさい』 | ||
といって励ましてくれた | ||
おれもこの男の知遇には ほとほと感激して いつかこれに報ゆるだけのことはしたいと | ||
思っていたのに 惜しいことに利右衛門は おれが長崎にいる間に死んでしまった | ||
こんな残念なことはなかったよ |
死を予感? | 勝海舟(33)が長崎へ旅立つ時 渋田利右衛門(40)は自ずからの死を予感していたのか | |
『私が死んで 頼りになる人がなくなっては』といって 彼の人脈を紹介しています | ||
その中のひとり嘉納治郎右衛門(講道館 嘉納治五郎の父)は 神戸で[菊正宗]という銘酒を |
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代々営み 海舟が神戸へ赴いたとき 機械の類は全てこの人に購入してもらっています |
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いま一人は 伊勢の竹川彦三郎竹斎という医者で数万巻の蔵書がありました | ||
其のほか 幕末の開国論者で紀州の浜口儀兵衛など いずれも当代の有識者でした | ||
これらの人は稀代の人物で『さすがに利右衛門の眼識は高い』と | ||
勝海舟は回想しています |
情が迫ると | 箱館では正修舎と云う心学道話の講釈所を建て儒学者大島晩翠を招いて講義を受けたり | |
利右衛門も自ら講じたりしたが 情が迫ると涙を流して顔を覆うことがあったという | ||
安政5年(1858)12月4日渋田利右衛門 病歿 享年43 菩提寺は船見町の高龍寺 |
子孫に帯刀 | 明治維新後に勝海舟は利右衛門の恩に報いるため | |
蔵書をすべて函館奉行所で買い上げるようにし | ||
利右衛門の子孫に帯刀を許すよう取り計らっています |
勝海舟の言うには | 函館(明治2年9月30日迄は箱館でした)の人は 利右衛門の偉い事を知らぬ様だ | |
利右衛門は偉らぶらなかったけれど | ||
ある時『世間で云う大家先生にも余り感服する人はいない』と話していたと・・ |
文中の(年齢)は数え歳で記載しました 参考:氷川清話 |
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2014/03/12 |